バナナマンはコント師であり、ラジオはショーであるわけで

バナナマン日村がマジ切れ、「俺は傷ついている」という悲痛な叫び - 無農薬有機お笑いブログ

この人のねっとりなめるような論評は大まかに納得できるんだけどこのタイトルに違和感があって、その違和感は「バナナマン」のコント師というジョブについて見逃していることに由来する。・・・んで、まーこれから伝える内容は薄いのだが思いのほか長くなってしまったのでここで結論いうと、「マジで捕らえすぎじゃね?」ってことになる。

バナナマンは自他共に認めるコント師ということがポイント。コントというのは演じることであり、二人以上の人たちが面白いやりとりを演じることによって成立するお笑いの手法のひとつである。そしてバナナマンは長い下積み時代からずっとコント師を生業にしてきた。

ラジオでは確かに完璧な演技者としてのコントがほつれる。テレビの演出の縛りから離れ、ある程度自由に話せることにより本音が垣間見れ、このリンク先で書かれている回はコント演者が舞台から降りてしまうような隙をみせたようにもみえなくもない。ただこんな荒れた回であっても、それでもコントの範囲内だと考える。

アメリカンプロレスがこれにかなり似たスタイルではないかと考えている。アメリカンプロレスに出てくるレスラーは基本的には役を演じている。ヒールが客をけなし、ベビーフェイスがそのヒールをやっつけることで客は溜飲を下げる。そんなやりとりが続く中で、アメリカンプロレスはリアリティを出すために実生活をベースにしたストーリーを持ってくることがある。たとえば、付き合っていたカップルのレスラーの男(A)のほうが怪我で休場していた間、彼女が別の男レスラー(B)と付き合ってしまった、というプライベートのスキャンダルがおきる。Aは自分のホームページでBを糾弾して話題になった。数週間後、ヒールに転じた女とBが、Aと敵対するストーリーが流されたのだ。この回のラジオはこのギミックのスタイルに非常に近いのではないのだろうか。

この放送の件、日村はある程度本当の気持ちを話していたのは事実かもしれない。しかし感情任せにしゃべっているように見えたのは「今回の役」だと思うのだ。役柄上、ショーを盛り上げるために大げさに振舞うし舞台が面白く転がるように展開する。設楽はコントのバランサーでありマネージャー。それもかなり上質の。なので番組自体もコントショーの体を崩していない。この現実とショーの非常に微妙で絶妙なバランスを保っていることこそ、この回が神がかっている理由となる。そして私の聞いた限り、日村は舞台から一度も降りていなかった。この放送で「日村がマジ切れ」と称するのに違和感を感じるポイントはここにある。

あと蛇足で、お笑い芸人といじめ問題について。ラジオ番組お笑い番組はショーだが、いじめはショーではない。それだけは事実。

さらに蛇足。
アメトークの過剰な演技性に感じる、細かいが重要な違和感 - 無農薬有機お笑いブログ
これは違和感しか感じない。プロレスで言えば、兄弟ギミックのレスラーのそれぞれの生年月日を調べて、「弟のほうが年上だからリアリティがない」って文句つけている感じ。